◆出来事への反応の仕方
ニュースや色々な情報に対するコメントや、SNSの投稿を見ると、実際の割合は置いておいて多くの声が批判的であるように感じる。
「tododesuは、新たに新車でスズキのバイクを手に入れた。」というニュースがあったとする。
「せっかくだから違うメーカーにしてみるのも良かったのではないか?」
→意見だと思います。提案してくれている。そういう考えもあるだろう。
「バイクとか、ださ。」
→乏しい感想。スルー。
「素晴らしい!ブラボー!」
→嬉しいねぇ。これも感想。
「スズキにするなんて、どうかしてる。それなら買わない方がよい。」
→なんだかいきなり噛み付かれましたね。スズキに何されたのか知りませんが、理論が飛躍的ですね。批判でしょう。
「またスズキ?鈴菌はこれだから。」
→この人はおそらく鈴菌。
批判は意見とは違う、批判は要するに文句、悪く言い換えると罵倒や悪口とも聞こえるものある。
意見とは良い意味で正そうとする声、改善するべき点を指摘する声だと思う。
批判・感想は自己完結する、その人がどう思ったかどうかでしかない、対話にならない。
対象に対して散々なことを言っているが、その自分の意見に責任が持てるか?「かえりの会」でなんとなく発言するのとは違う。
そんな声が流行語大賞候補になったりもする、世も末だ。
◆大きな声
何か少しでもつけ入る隙はないか、落とし入れることはできないかと探しでもしたの?と、針の糸を通すような指摘をしているものもある。
また、何か曲げたく無い思いがあると、無理矢理にでも誤魔化したり何かこじつけて正当化する場面もよく見かける、無理があってもだ。そんなに何の都合が悪いのか。
陰謀だ!隠蔽だ!忖度だ!嘘つきだ!更には洗脳のような話まで色々と見かける。
ただ、そんな人ばかりで溢れているわけではない、目立っているだけで、その率は多くはないのだろう。1つの声が誇張されて広がる。それこそが、ミニマムな側の狙い。まんまとハマっている感はある。
だからこそ、極端なことも言う、目立ったもん勝ち、炎上したもん勝ちみたいなところがある世の中だ。
自分がどう思うか、冷静に判断して生きていきたいですね。
と、このブログとまた批判的になってしまうのかもしれない、輪廻的なエンドレスな話。
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